カテゴリ:読書・書籍( 37 )


2014年 02月 11日

司馬遼太郎『翔ぶが如く』読了

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司馬遼太郎の『翔ぶが如く』全十巻読了致しました。何と一年以上もかかってしまいました。これは西南戦争の終結までを描いたもので、明治十年までの近代国家に生まれ変わろうとする日本の苦しみがよくわかる大河歴史小説です。
肝心の西郷隆盛の魅力にどれだけ肉薄できるかという課題は、この文豪にも極めて難しい課題であったようで,そのしんどそうな様子が,別段の興味と楽しみでもありました。
しかし、日清戦争と日露戦争特に後者を中心に描かれている『坂の上の雲』のある種の明るさ、オプティミズムに比べてこの作品には,どうしようもない切なさ苦しさがあって、その点で,読み進むのに心理的な抵抗があったのも事実です。同じ日本人同士という以前に、共に明治維新を成し遂げた最有力藩である旧薩摩藩の人々の敵味方に分かれて戦う姿が何とも痛ましいことでした。そこへさらに薩摩への恨み骨髄の旧会津藩の士族が戦争に投入されて悲惨さはいや増します。
藩閥政治はその後もずっと続いたわけですが,西南戦争後の旧薩摩藩、鹿児島において自尊心というのはその後どうなったのか一言書かれていて欲しかったというのが、すろうりぃめの無い物ねだりの一言です。つまりは、その後この戦役が鹿児島の人達の精神にどのように、どのくらいまで影響を及ぼしたのか,とても興味があります。
今まで『菜の花の沖』、『竜馬がゆく』、『翔ぶが如く』、『坂の上の雲』と読んで来て、幕末から明治終わり近くまでの日本社会の動きと空気のようなものが、だいぶ肌身で分かって来たような気がします。(もちろん「気がする」程度ですよ。)歴史好きな方はぜひどうぞ!(よだ じゃっどん すろうりぃ記す)
PS. 本日の傍らに写っております『同志社山脈』も同日読み終えた書籍ですが、この感想はまた機会がありましたら。

by satoyama-06 | 2014-02-11 23:24 | 読書・書籍
2012年 12月 18日

誠よりほか許されていない

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小諸出身の画家小山敬三さんは、學生時代に画業を志し,父親にその旨願い出ました。しかし父親はどうしても許しません。
そこで息子がなぜそこまで反対するのかと訊きますと,「絵をもって生活しょうとすると,とかく富豪だとか、権威者に諂(へつら)うような立場になりがちで、絵が堕落するか,人物が堕落するか、そうした立場におちいりやすい。自分の子をタイコモチ(幇間)にはしたくない」。
そこで「私はどうも生活に対しての可能性については自信がない。例え才能があったとしても,その時代に認められなければ非常に困難な立場におちるし、才能がなければ尚更のことだ。この問題は、自分が神様でないから予めわからない。私の生活に対しての心配で、画家になることを許してくれないなら、私の生活を一生めんどうみてくれませんか」。(さすがにキセルの頭でガーンと引っぱたかれるかもしれないと覚悟したそうです。)さらに続けて
「絵は自分の一生の仕事と思う。一生懸命誠をこめて描きます。それだけは誓うことができます。しかし、世に名をなすとか、生活できるとかいうことは全然自信がありません。たとえ世に認められず,みじめな生活をすることがあっても、絵を描いて安心立命、墓に参ります。」
と申した。
すると父は、
「ああ、そういう考えならやってみるもよかろう」
と言うので、私はかえってびっくり仰天してしまった。
「とにかく誠心誠意、誠をこめて世を過ごすという事よりほか、人間には許されていない。それが唯一無二の生きる道だと信じている。懸命な仕事で一生をすごすということならやってみるもよかろう」『気韻生動の画家 小山敬三』中「来し方の記」より)
(よだ じんせいのたいわ すろうりぃ記す)   

by satoyama-06 | 2012-12-18 20:15 | 読書・書籍
2011年 05月 19日

かな遣いのれき志

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明治弐拾年と申しますと、西暦1887年、大日本帝国憲法発布の弐年前です。
その当時の小學読本ですが、今から百二十年程前の日本語でありながら、ずいぶん違うなあという印象になりますね。司馬遼太郎によりますと、明治時代というのは、言語的には近代日本語を生み出す苦闘の時代でもあったということです。この苦闘の時代があったからこそ、私達はただ今どんな學術書も日本語で讀むことができますが、その専門用語の国語化に失敗したか、放棄した国々では原書ないし英語で讀み書き述べなければならなくなったということです。
それは置いておくとして、そのかなないし用字ですが、当然かなで表記すべきところに思い立ったような漢字を使っているのが、現代の感覚からみて面白いところですね。別にその音のかながなかったわけではありません。例えばkoは「こ」ですね。それなのにこの写真を見ますと、koには「古」を使っています。
またよく使われたところでは「shi」の音には「志」が遣われました。手元にある辞書の一例で申しますと、大正14年(1925)年初版、昭和17年改訂36版の『広辞林』では「し」のかなは一切遣われておらず、すべて「志」(ただし草書体)の字です。
日本には独特の、用字に対する感覚と文化の継承があるようで、そんな一くさりは次回のお茶飲み話に致しましょう。(よだ ほんじつのほうもんしゃのみなさん江 すろうりぃ記す)

by satoyama-06 | 2011-05-19 22:24 | 読書・書籍
2011年 04月 19日

『ゾマーさんのこと』

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『ゾマーさんのこと』(パトリック・ジュースキント著 絵ジャン=ジャック・サンペ 訳池内 紀 文藝春秋社刊)
古本屋で最近ご縁ができました池内 紀(おさむ)さんのお名前が目にとまりましたので,手に取って内容も面白そう,装丁もおおいに良し,挿絵は最高!文字組もだいたい良し(もっとゆっくりの活字組ならさらに良かった!)、そして訳文は極めて良さそう、さらには値段もおおいに良し。迷う事なく購いまして、本日讀みました。
これは二十年程前独逸の紙価を高からしめたご本だそうです。語り手のおそらく五年配の男性が淡々と、淡いユーモアとエスプリの効いた好もしい語り口で自らの少年から青年時代をゾマーさんの姿・生き方と交錯させながら語っている物語です。多分そのゾマーさんは過酷な第二次大戦をくぐり抜けた経歴の方なのですが,とにかく正体不明の、常に歩いている年配の人なのです。
読後そのゾマーさんの狂気じみた行為と生き方に潜む悲しみを共有したいという静かな優しさの想いに駆られました。
その作者のジュースキントという人がまたゾマーさんと同じように?正体を表さない方なのだそうです。何やら符合していますね。(よだ あるいたりとまったりする すろうりぃ記す)
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by satoyama-06 | 2011-04-19 21:48 | 読書・書籍
2011年 01月 20日

『綴方教室』

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先日田島征三さんのシンポジウムに、うちの家人Aとその友人達、京都から駆けつけた美大生女子が参加させていただきました。
その対談者のなかに、この企画の発起人のお一人でもある池内 紀(おさむ)さん(独逸文學者・エッセイスト)がいらっしゃいましたが、そのご本を、たまたまシンポジウム前に立ち寄った古本屋で薦められるままに買ったというのです。その古本屋の親父が昔から池内さんの大ファンだとのことで、そのご本はすべて揃えてあるとのことでした。
そのなかで『綴方教室』というご本を購っておいたので、そのご本にサインしていただいたのですね。「古い本をお持ちですねぇ」などと言われたのだそうですが、持ち帰ってくれたものを見て、面白そうなので、早速読み始めました。「これは面白い。ためになる。面白いな。ためになる。」と心中繰り返し快哉を叫びながら、読み始めて二日目、何とご本人から新刊の二冊が届きました。こんなことがどくしょ森をやっていて恵まれる役徳の堪らない点です。
さて、この池内さんには高名な宇宙物理学者のご兄弟、池内 了(さとる)さんがいらして、実はここしばらくその文章(もちろん専門の論文等ではありませんよ、念のため。)を結構集中的に讀んでいる最中だったのです。重々に重なるご縁の不思議さに畏怖の念さえ持った次第です。(よだ きょうのつづりかたどうだったかな すろうりぃ記す)

by satoyama-06 | 2011-01-20 21:47 | 読書・書籍
2010年 11月 18日

小諸図書館リサイクル市

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昨日小諸市立図書館のリサイクル本市に出掛けてまいりました。要は、図書館の払い下げの書籍を自由に持って帰ってよろしいという本好きにはまことにありがたい期間の謂いです。
しかし、頂きにいくとして、方針も自己確認しておかなければなりません。まずは、決して好きなだけ頂いてこない事。と申しますのも、人様にそのまま差し上げても良い内容の書籍ではあっても、とりあえずは相当場所を占有されてしまうので,よほど選び込むこと。(すでに相当占拠されておりますです、はい。)殊に全集物の全巻は御法度。その上で、自分が必ず読みたい書籍である事。ただし、自分が讀む場合には、ひどく細かい活字組は内容に関わらず諦めること。(目の拷問。う〜ん、これは悲しい。)
これだけの戒律を自らに課して尚選びきれなくて、泣く泣く帰るような羽目になったら辛いなぁと思って臨んだのですが、幸か不幸か、それほど深刻な悩みもなく、結構なご本を十数冊頂いて来ましたので、結果オーライでした。このご本達のそれぞれについて,選考理由も申し上げたいのですが、我慢しておきます。
序でに申し上げておきますが,古本屋「二宮書店」閉店の今となっては、いくら、京都と信州小諸、遠きにありといえども文化の灯は絶やしてはいけないと勝手に奮起し,どくしょ森店頭に古本市、その名も「ロバ書房」を開店しておりますので,どうぞごひいきに!ただし、各図書館から払い下げで頂いて来たご本達はもちろん、無料にてお分けしています。(よだ ろばしょぼうあるじ すろうりぃ記す)

by satoyama-06 | 2010-11-18 22:09 | 読書・書籍
2010年 09月 10日

なに?

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薪材の確保の作業中見つけた枝です。三つ又に別れた部分の枝の長さをある程度揃えれば「立ちあがって」これに石灰を少し混ぜた土をば、土壁を塗る要領で塗り重ねて「肉付き」させれば何か変な生き物「のような」ものが出来るんじゃないかと思って、持って帰りました。
ここでちょっと理屈を言いますが、「立ち上がる」と思ったり、「肉付け」と言ったり、「のような」と言いましたが、これもこの枝に対してすろうりぃの想いを重ねてそう言う「者のような物」をイメージしているんですが、それも一つの勝手な想い。別のひとがこれに想いを重ねればまたぜんぜん別のもののイメージが立ち上がってきます。あるいは、例えばそのひとそれぞれの勝手さに異を唱えて、湧き上がるイメージを拒否して何が何でもこれは木(の枝)である、他の何物でもない!と言って、ぜったい木に見せる工夫をする人たちがいるかもしれません。これはきっとモダンアート系の一つの考え方と手法でしょうね。
あなただったらどう見立ててどんなものを作っていこうと思いますか、あるいは見立てまい!としてがんばりますか。それもこれもどれもあなたが自ら作っている独自の感性!「アートは人を自由にする」という名言ってないんでしょうか。
こんな理屈を思ってみましたのは、最近『なぜ、これがアートなの?』(アメリア・アレナス著 福のり子訳 淡交社刊)を讀んでいる影響です。感性と頭、シャッフルされます!(よだ かしらかたやんにゃ すろうりぃ記す)

by satoyama-06 | 2010-09-10 22:43 | 読書・書籍
2010年 07月 16日

『汗かくヘーゲル』

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ああ、皆さんの反応が今から見えるようですが、ようやく半年近くをかけて讀んできたヘーゲルの『精神現象学』を読了致しました。こんなご報告を致しましてもせめて上々の評価が、「暑苦しい」、好意をまったく期待しなければ、ただ敬遠・黙殺あるのみ、というくらいでしょうか。
ひとの精神の、信じられないくらいの進展の歴史をば、自ら体験しつつ壮大なパノラマで拝見させていただくという旅路だったように思います。目の眩むような大旅行です。ただし、その人類史上でも希有な旅路の大部分が五里霧中のなかにありました。あ〜あ!ムリありません。訳者自身でさえ、後書きで「悪戦苦闘は重々承知の上だったが、実際にペンを握って日本語にする作業にする作業にとりかかってみると、その大変さは予想をうわまわった。『精神現象学』のドイツ語原文は、ただ読みすすむというだけでも、難文、悪文、拙文、不文、その他、何とでも悪口を言いたくなるような代物だが、いざ翻訳しようとそれに立ち向かっても、おいそれと日本語になってくれない。」(同書長谷川宏訳 作品社刊)訳者自らそうおっしゃって頂きますと、分らないのは自分一人じゃないと、安心もします。
じゃあ、なんでそんなひどい苦労を買って出るんだ!?という話にもなりますが、結局、そういうところに首を突っ込んでいきたいんですね、なんにも分らなくっても、何かを求めて。すろうりぃのライフワークのタイトルも以前から決まっているのですが、名付けて『汗かくヘーゲル』。さて、どんな書物になるんでしょうか。それも五里霧中です。
性懲りせず、これからしばらく解説書などで力を蓄えたあとで、今度はやはりヘーゲルの『美學概論』全三巻に挑戦しようと思ってます!でも買いそろえるだけでも相当経済的に負担なんですよねえ。同じ道も朋あればまた楽し。どなたかご一緒に讀みましょ。(よだ あせかくとも すろうりぃ記す) 

by satoyama-06 | 2010-07-16 23:50 | 読書・書籍
2009年 12月 17日

いまだ知らず

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スペシャルドラマ『坂の上の雲』、いよいよ始まりましたね。キャスト陣だけを見ても、超の字をつけてもいい豪華俳優陣ですし、各アクターの気合いの入り方もびんびん伝わって来る熱演です。
さて、原作についてです。司馬遼太郎は確かそのあと書きのいくつめかの中で、これをば小説と言えるかどうかは疑わしいという趣旨のことを書いていましたが、確かにわたくしもそう感じました。
これは小説ではない。小説以上のものである!と。
思い起こしますと、戦争を題材にした傑作の小説は世に多いと思うのですが、例えば、トルストイの『戦争と平和』、同じく露西亜(時代的にはソ連時代)のショーロホフの『静かなるドン』。特に前者などは戦争に関わるエートス論などに論じ及んで、小説の枠を超えている部分はありますが、基本的にどこからどう見ても堂々たるしかも非の打ち所がない完璧な小説です。しかしこの『坂の上の雲』は、違います。ぜんぜん違う!この作品を作る時すでに、小説の枠は破綻させざるをえないことは、当然ながら、この作家自らが承知していた事だと思うのです。明治という時代とその時代に生きた人たちを書くとなると、もはや小説という枠は足かせに近かったかも知れません。ですから、実は私たちはこの作品のタイトルこそ知っていますが、その呼び名をいまだに知らないと言えるのかも知れません。わたくしが司馬遼太郎を作家と呼ばず、人文学者と呼びたいゆえんです。
『坂の上の雲』について、いろいろ思ったことども・感じたことなど書き連ねていきたい衝動に駆られますが、まあ、その全部をやめて、やはりその「あと書き」で知ったことだけを申し上げておきます。
この人文學者は特に日露戦争に関わる資料の塊集とその閲覧、分析評価などに数年、執筆に数年、計十年を費やしたそうです。しかももっとも盛んな四十台の十年です。評価好悪ひとそれぞれでしょうが、少なくとも現代日本における知的遺産の一つであることは間違いないでしょうね。(よだ りょうたろうのおか すろうりい)

by satoyama-06 | 2009-12-17 22:37 | 読書・書籍
2009年 10月 28日

『パパラギ』(其の二)

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この本、1920年刊行ですから、第一次世界大戦の講和条約も済んだばかりの植民地主義全盛時代です。そんな時代に南海の酋長ツイアビなる人物が、ヨーロッパを旅して回って、それに基づく見解をその配下の草民に語るという構成自体が荒唐無稽ですが、そんな虚構にお構いなくこの本が愛されて来たのは、その「ツイアビ」の口から語られる「文明」への本質的な批評精神によるものでしょう。だからこの『パパラギ』はいつまでも新しい!
例えば、ツイアビはこう語ります。「パパラギ(白人)は『ひまがない、ひまがない』と言うが、誰にも今まで、今も、これからもあるのは、日が昇っては上がり、沈む昼間があり、一晩東から西に巡る月があるだけだ、と」。ただしこれは意訳ですが。
さて、例えば社会学者のエーリッヒ・フロムというひとは、現代のことばは所有のことばになっているということを指摘しましたが、「時間がない」という言い方はまさに所有観念にもとづく言い方ですね。考えてみれば確かに時間自体を所有出来るはずがない。では、なんで自分はそういう言い方を、普段当たり前と思って使ってるんだろう??と思わされてしまうんですね、このツイアビのことばには。
さて、最後に一言。すろうりいは独逸語を解さず、その原文の趣きは分からないのですが、それにもかかわらずなぜか自信を持って言えますのは、岡崎照男さんのこの訳です。ずばり!名訳です。(よだ ついあびにあいたい すろうりい記す)  

by satoyama-06 | 2009-10-28 10:29 | 読書・書籍